私は仕事柄、
病気を抱えてターミナル期を迎えている患者さんやご家族の方と日々遭遇します。
自分がグリーフワークを体験したからといって、
そのような方々に、ステージは違えど、
ちゃんとしたことを見据えたり、
アドバイスしたり、共感できるかと言うと決してそんなことはありません。
事の理不尽さに対する怒りだったり、
死に向かう孤独感だったり、
大切な人をこれから失おうとする深い深い悲しみだったり、
そういったものに、
ただ、
ただ、
圧倒されるだけ。
その言葉を失う中で、ほんのちょっとでも自分が職業人として、手伝えることを探していく。
そんなかんじなのです。
体験したからといって、
個人個人の思いや価値観や大切なものはそれぞれ違う。
わかったような口をきいてほしくないし、
誰ひとりとして自分のことも、相手のことも、
理解できないと思う。
そう考えると自分自身、ずっとずっと、長い間、誰も信じられず孤独だけで生きてきたのだと思う。
私の死別の年齢(12歳)で、周囲に理解してくれる人は皆無だった。
理解してくれようとした人が数人いたことが、唯一の救いだった。
でも私のペースに合わせずに、
自分勝手に理解してくれているつもりになっている、大人達が大嫌いだった。
だからこそ、
グリーフワークを体験しようとしている、体験している、
目の前の人を、
理解できないからこそ、
理解したいと思う。
そう、
私は理解できないくせに!
と周りに怒りながらも、
ずっとずっと純粋に理解してくれようとする人を探していたから。
そう、
その人の個別性は理解できなくても、
その悲しみや苦しみと共に生きている目の前の人が、
自分のように愛おしく感じるから。
だからこそ。
だからこそ。
(ピンク)